線形代数学
線形代数学
線形代数学もしくは線型代数学(せんけいだいすうがく、linear algebra)はベクトルや行列の計算を通じて線形変換・連立一次方程式・二次形式といった数学的対象の研究を行う分野である。線形代数学はそれ自身代数学の一分野であるが、解析学・幾何学にも初歩的な部分での応用を持ち、現代数学の根幹をなす分野であると言える。この項目では線形代数学の概要を一望することを主眼に置き、今後数学を学ぶにあたって重要となる基礎概念を紹介する。
なお、linearの和訳について「線形」と「線型」のいずれも採用されることがあるが、Mathpediaでは「線形」に統一する。
定義(ベクトル空間)
$K$ を 体 (例えば、$\mathbb{R}$ (実数全体のなす集合)または $\mathbb{C}$(複素数全体のなす集合))とし((より一般には体と呼ばれる構造。))、 $V$ を集合とする。$V$ 上の二項演算 $+$ および、 $K$ と $V$ の要素から $V$ の要素を定める演算 $\cdot$ 、そして$\mathbf{0}\in V$が存在して以下の8つの法則を満たすとき、 $V$ は $K$ 上のベクトル空間(vector space)または $K$ 上の線形空間(linear space)であるという((あるいは、「$K$-ベクトル空間」「$K$-線形空間」のようにいう。))((「ベクトル空間」と「線形空間」は原則として互いに言い換え可能である。たとえば、「実ベクトル空間」は「実線形空間」ともいう。))。
- (V1) 結合律
$V$ の任意の元 $\mathbf{x},\mathbf{y},\mathbf{z}$ に対して $(\mathbf{x} + \mathbf{y}) + \mathbf{z} = \mathbf{x} + (\mathbf{y} + \mathbf{z})$ が成り立つ。
- (V2) 可換律
$V$ の任意の元 $\mathbf{x},\mathbf{y}$ に対して $\mathbf{x} + \mathbf{y} = \mathbf{y} + \mathbf{x}$ が成り立つ。
- (V3) 単位元(零ベクトル)の性質
$V$ の任意の元 $\mathbf{x}$ に対して $\mathbf{x} + \mathbf{0} = \mathbf{0} + \mathbf{x} = \mathbf{x}$ が成り立つ。
- (V4) 逆ベクトルの存在
$V$ の任意の元 $\mathbf{x}$ に対して $V$ のある元 $\mathbf{x}'$ が存在して $\mathbf{x} + \mathbf{x}' = \mathbf{x}' + \mathbf{x} = \mathbf{0}$ を満たす。
- (V5) スカラーの加法に対する分配律
$K$ の任意の元 $a,b$ と $V$ の任意の元 $\mathbf{x}$ に対して $(a+b)\cdot\mathbf{x} = a\cdot\mathbf{x} + b\cdot\mathbf{x}$ が成り立つ。
- (V6) ベクトルの加法に対する分配律
$K$ の任意の元 $a$ と $V$ の任意の元 $\mathbf{x},\mathbf{y}$ に対して $a\cdot(\mathbf{x}+\mathbf{y}) = a\cdot\mathbf{x} + a\cdot\mathbf{y}$ が成り立つ。
- (V7) スカラーの積とスカラー乗法の両立
$K$ の任意の元 $a,b$ と $V$ の任意の元 $\mathbf{x}$ に対して $(ab)\cdot\mathbf{x} = a\cdot(b\cdot\mathbf{x})$ が成り立つ。
- (V8) スカラー乗法の単位元の存在
$V$ の任意の元 $\mathbf{x}$ に対して $1\cdot\mathbf{x} = \mathbf{x}$ が成り立つ。
これは高校数学における「ベクトル」の集合を一般化したものにほかならず、一見基本的かつ単純な概念であると思われる。しかしながら、以下に述べる通り、線形代数の構造は数学のあらゆる分野に現れ、抽象的かつ高度な数学を扱うにおいても重要な位置を占める。
線形代数学は通常大学の学部1年の課程において扱われるが、その時点ではその後に続く各分野における「線形代数の有用性」を知る由もなく、抽象的な集合論の言葉を用いた無味乾燥な一般化であると感じる可能性も少なくはないだろう。そのため、以下においては「何故線形代数を学ぶのか」という目標の説明に主眼を置き、線形代数の粗筋を概観することを試みる。
何故線形代数を学ぶのか
線形構造に由来した問題は、数学の様々な分野において現れる。これらの問題は、線形代数学に登場する「線形部分空間の決定」「線形写像の分類」「固有値問題」「正規行列のユニタリ対角化」「二次形式の標準化」などの基礎的な問題の組み合わせに帰着することで、解決されることがある。よって、これらの手法を十分に習熟することは、基礎的ではあるが、現代数学を学ぶにおいて大きな助けとなることが期待できる。
行列の算術
線形代数学を学ぶにおいて最も基礎的かつ重要な事項は、行列の算術である。この算術は、一見初等的な計算手法に過ぎないが、これらを通して多様な数学上の問題を「線形代数の理論」によって解決することが可能となる、まさに第一の根拠となるべきものである。今後発展的な数学を扱うにつれて、多くの種類の線形構造が極めて抽象的な形で現れるが、究極にはそれらを行列の算術に帰着し制御することは、現代数学の一つの目的であるといえる。
連立一次方程式
連立一次方程式は、線形代数学における中心的な問題である。初等数学においても、連立一次方程式は個別の方程式同士の適切な加除によって解決出来る事が知られているが、この方法を行列の算術として確立したものが掃き出し法と呼ばれるアルゴリズムである。他方、現代数学の基礎言語である集合と写像の言葉を用いることで、連立一次方程式の解の有無やその量、具体的な記述法の探求は、線形写像の核・像・階数と呼ばれる概念の探求へと完全に置き換えることができ、ゆえに線形代数学はまず線形写像の性質を明らかにする事を一つの目標とする。
基底と表現行列
線形写像の概念は一見抽象的であるが、これは先述の行列の算術と関係させて具体的に調べることが常に可能である。そのために必要なものは線形空間の基底と呼ばれる概念である。全ての線形写像は状況に応じて適切な基底を選択することによって簡単な行列(表現行列)として表示され、それによって考察の対象となっていた問題そのものを単純化することが可能である。線形空間には実に多くの基底が存在し、いずれの基底にて所与の線形写像を表示するかの選択に応じて、同一の線形写像は異なる表現行列へと関連付けられ、表現行列同士の関係は基底変換行列という行列の算術の言葉で具体的に計算される。
実は、基底変換によって表現行列を簡素化することは、行列の算術における掃き出し法を適用することに他ならない。こうして、抽象的な線形写像の理論と具体的な行列の算術との表裏一体となった関係性を記述され、それらを利用することで抽象的な線形写像の構造を具体的な行列の計算で調べたり、逆に(具体的であるが)複雑で巨大な行列の性質を抽象代数学の方法論で簡明に分析する方法論が確立される。
行列式
線形代数学が取り扱う最重要の基本的概念として、行列式が挙げられる。行列式は、ある線形変換が同型であるかを判定するための強力な判定条件を提供し、具体的な連立方程式の解を明示的な公式にて表す際にも欠かすことができない。また微積分学においては、体積の変化率としての意味をもち、後述の固有値問題の中では固有値が満たすべき代数的な方程式として現れ、これは行列を代数幾何学に関連づけるのにも用いられる。行列式の計算には先述の掃き出し法や、余因子展開あるいはラプラス展開と呼ばれる再帰的な関係式を用いることができる。そのため、行列式は計算法も理論的な発展性も共に十二分に持つ数学的対象であると言える。
ジョルダンの構造理論
以上の基礎の上に成り立つ応用的な事柄として、単一の線形変換におけるジョルダンの構造理論が挙げられる。線形変換を調べる際においては固有値・固有ベクトルと呼ばれる概念が重要となる。これらを用いることで、一見複雑な線形変換を単純な見た目の行列に帰着する事が可能となる。固有値・固有ベクトルを決定する問題は固有値問題と呼ばれ、これは固有ベクトルと固有値という二種類の未知量を含む、未知固有値に関して非線形な方程式を解くと言う問題である。
もし、固有値を求められてしまえば、これまでに習得した連立方程式を解く方法論で固有ベクトルは求められる。固有値は特性多項式とよばれる、行列式を用いて構成される多項式の根として特徴づけられるため、もしこの多項式が単純な形をしていて根を直接求めることが出来れば、それが固有値を求めたことになり、従って上述の通り固有値問題は解けたこととなる。しかし、実際の場合にこの方法で固有値を決定することはしばしば困難であり、よって固有値問題の様子を調べるには個別の状況での工夫が重要となる。時には固有ベクトルの様子を固有値よりも先に調べることが必要なことさえもある。複数の線形変換同士の関係性を通して以上の固有値問題を調べることも有用であり、この方向の発展性を持つ分野を表現論と称する。
二次形式の標準形の理論
一方、幾何学などでしばし現れるのは二次形式の標準形の理論である。二次形式はその指数積分が厳密に(行列式を用いて)計算できるという意味でも、なめらかな関数のグラフの臨界点の周りの歪み具合を調べる意味でも、幾何学的な対象の上に計量やシンプレクティック形式といった基本的な構造物として現れるという意味でも、リー環の構造を分類するという意味でも、とにかくあらゆる場所に現れるものであり、またそれ故に重要である。
二次形式の分類には、前述の固有値問題を応用することができる。基本的な結果は正規行列のユニタリ対角化であり、これは考えている計量を変化させることなく交差項を見かけから取り除くことが可能であることを意味する。一方、より一般的な計量を考えない場合も含めたい時には掃き出し法を直接使うことでも交差項を取り除くことが可能である。この方針で分類することで実形式を分類するのがシルベスターの理論である。