線形代数の基礎
$\newcommand{\bm}{\boldsymbol}$
線形代数学の基礎
線形代数学もしくは線型代数学(せんけいだいすうがく、linear algebra)はベクトルや行列の計算を通じて線形変換・連立一次方程式・二次形式といった数学的対象の研究を行う分野である。線形代数学はそれ自身代数学の一分野であるが、解析学・幾何学にも初歩的な部分での応用を持ち、現代数学の根幹をなすと言える。この項目では初学者に向け実ベクトル空間・複素ベクトル空間に限った線形代数学の概略を述べる。より一般的な体上での議論については「ベクトル空間」ほか各ページを参照のこと。
なお、linearの和訳について「線形」と「線型」のいずれも採用されることがあるが、当wikiでは「線形」に統一する。
0. 導入
この項では、[[1. ベクトルとベクトル空間>#o898806e]]で定義されるベクトル空間の導入として、初等数学で扱うような幾何学的意味のベクトルについて、基本的な性質を確認する。
0.1. 空間ベクトル
定義0.1.1.(空間ベクトル)
平面上の「大きさと向きを持った量」を平面ベクトルという。実用的には、物理学において速度や加速度、力といったものを表すのに使われる。特に平面上に直交座標系が与えられている場合、平面ベクトルは各軸方向に分解することが出来る。たとえば仰角45°方向に働く1Nの力を水平方向 $\sqrt{2}/2$Nと鉛直方向 $\sqrt{2}/2$Nに分解すると言った具合である。このようにすると、平面ベクトルと実数の順序対とを同一視することができる。平面ベクトル $\vec{a}$ の $x$ 方向の大きさが $a_1$ 、 $y$ 方向の大きさが $a_2$ であることを $$\vec{a}=(a_1,a_2)$$ のように表す。
同様に3次元空間上の「大きさと向きを持った量」を空間ベクトル((もっと一般に、4次元以上のEuclid空間上の幾何学的なベクトルのこともこう呼ぶことがある。))という。空間ベクトルは実数の順序付けられた3つ組と同一視出来る。すなわち、空間ベクトル $\vec{a}$ の $x$ 方向の大きさが $a_1$ 、 $y$ 方向の大きさが $a_2$ 、 $z$ 方向の大きさが $a_3$ であることを $$\vec{a}=(a_1,a_2,a_3)$$ と表す。平面ベクトルにおける議論は空間ベクトルでも同様の議論が可能なので、当項「導入」では以下空間ベクトルについてのみ扱う。
定義0.1.2.(空間ベクトルの大きさ)
空間ベクトル $\vec{a}$ の大きさは、 $|\vec{a}|$ と書かれる。特に、 $\vec{a}=(a_1,a_2,a_3)$ のとき、 $$|\vec{a}|=\sqrt{a_1^2+a_2^2+a_3^2}$$
定義0.1.3.(空間ベクトルの和)
$\vec{a}=(a_1,a_2,a_3)$ と $\vec{b}=(b_1,b_2,b_3)$ に対し、 $\vec{a}+\vec{b}$ は次のように定義される。 $$\vec{a}+\vec{b}=(a_1+b_1, a_2+b_2, a_3+b_3)$$ 物理量を空間ベクトルで表すことにより、物理量の合成を空間ベクトルの和で表すことができる。
定義0.1.4.(空間ベクトルの定数倍)
$k$ を実数とする。空間ベクトル $\vec{a}$ の向きを変えずに大きさのみを $k$ 倍したものを、 $k\vec{a}$ とする。特に $\vec{a}=(a_1,a_2,a_3)$ と成分表示されている場合、 $$k\vec{a}=(ka_1,ka_2,ka_3)$$
定義0.1.5.(空間ベクトルの内積)
空間ベクトル $\vec{a}$ と $\vec{b}$ のなす角を $\theta$ とするとき、内積 $\vec{a}\cdot\vec{b}$ を次のように定義する。 $$\vec{a}\cdot\vec{b}=|\vec{a}||\vec{b}|\cos\theta$$ 特に $\vec{a}=(a_1,a_2,a_3),\vec{b}=(b_1,b_2,b_3)$ のとき、 $$\vec{a}\cdot\vec{b}=a_1b_1+a_2b_2+a_3b_3$$
1. ベクトルとベクトル空間
この項では、前項で述べた空間ベクトルの一般化として、より一般的なベクトルを定義する。
1.1. ベクトル空間
定義1.1.1.(ベクトル空間)
$K$ を実数全体のなす集合 $\mathbb{R}$ または複素数全体のなす集合 $\mathbb{C}$とする[1]。 $V$ を集合とし、$V$ 上の二項演算 $+$ および、 $K$ と $V$ の要素から $V$ の要素を定める演算 $\cdot$ 、そして$V$ の要素 $\bm{0}$ が予め定められており、これらが以下の8つの法則を満たすとき、四つ組 $(V, +, \cdot, \bm{0})$ は $K$ 上のベクトル空間(vector space)または $K$ 上の線形空間(linear space)であるという[2][3]。
- (V1)結合律
- $V$ の任意の元 $\bm{x},\bm{y},\bm{z}$ に対して $(\bm{x} + \bm{y}) + \bm{z} = \bm{x} + (\bm{y} + \bm{z})$ が成り立つ。
- (V2)可換律
- $V$ の任意の元 $\bm{x},\bm{y}$ に対して $\bm{x} + \bm{y} = \bm{y} + \bm{x}$ が成り立つ。
- (V3)単位元(零ベクトル)の性質
- $V$ の任意の元 $\bm{x}$ に対して $\bm{x} + \bm{0} = \bm{0} + \bm{x} = \bm{x}$ が成り立つ。
- (V4)逆ベクトルの存在
- $V$ の任意の元 $\bm{x}$ に対して $V$ のある元 $\bm{x}'$ が存在して $\bm{x} + \bm{x}' = \bm{x}' + \bm{x} = \bm{0}$ を満たす。
- (V5)スカラーの加法に対する分配律
- $K$ の任意の元 $a,b$ と $V$ の任意の元 $\bm{x}$ に対して $(a+b)\cdot\bm{x} = a\cdot\bm{x} + b\cdot\bm{x}$ が成り立つ。
- (V6)ベクトルの加法に対する分配律
- $K$ の任意の元 $a$ と $V$ の任意の元 $\bm{x},\bm{y}$ に対して $a\cdot(\bm{x}+\bm{y}) = a\cdot\bm{x} + a\cdot\bm{y}$ が成り立つ。
- (V7)スカラーの積とスカラー乗法の両立
- $K$ の任意の元 $a,b$ と $V$ の任意の元 $\bm{x}$ に対して $(ab)\cdot\bm{x} = a\cdot(b\cdot\bm{x})$ が成り立つ。
- (V8)スカラー乗法の単位元の存在
- $V$ の任意の元 $\bm{x}$ に対して $1\cdot\bm{x} = \bm{x}$ が成り立つ。
補足1.1.2.
- $V$ が $K$ 上のベクトル空間であるとき、 $V$ の要素をベクトル(vector)、$K$ の要素をスカラー(scalar)と呼ぶ。
- $\mathbb{R}$ 上のベクトル空間のことを特に実ベクトル空間(real vector space)とも呼ぶ。
- $\mathbb{C}$ 上のベクトル空間のことを特に複素ベクトル空間(complex vector space)とも呼ぶ。
- 集合 $V$ は台集合と呼ばれる。
- 演算 $+$ はベクトルの加法(addition)と呼ばれ、その結果はベクトルの和(sum)と呼ばれる。
- 演算 $\cdot$ はスカラー乗法またはスカラー倍(scalar multiplication)と呼ばれる。この演算子はしばしば省略されて $a\cdot\bm{x}$ は $a\bm{x}$ のように書かれる。
- $\bm{0}$ は零ベクトル(れい-、ぜろ-、zero vector)と呼ばれる。
- (V4)において、$\bm{x}'$ は $\bm{x}$ の逆ベクトル(inverse vector)と呼ばれる。$\bm{x}$ を取ると対応する逆ベクトルは一意に定まる(後述)ので、$\bm{x}$ の逆ベクトルは $-\bm{x}$ と書かれる。
- $\bm{x} + (-\bm{y})$ は $\bm{x} - \bm{y}$ とも書かれる。
- 正式には四つ組 $(V, +, \cdot, \bm{0})$ をベクトル空間と呼ぶが、加法 $+$ やスカラー乗法 $\cdot$、零ベクトル $\bm{0}$ が文脈から明らかに分かるときは省略してベクトル空間 $(V, +)$ やベクトル空間 $V$ と書くことがある。省略されている場合であっても演算は全て予め定まっているものと考える。
- ベクトル空間は四つ組 $(V, +, \cdot, \bm{0})$ を指すので、同じ集合であったとしても異なる演算を用いて定義されたベクトル空間 $(V, +', \cdot', \bm{0}')$ とは区別される[4]。本稿においては、このように同じ集合上に複数の演算が定まっている状況を考える場合、演算を省略せずに四つ組で書くことにする。
例1.1.3.(ベクトル空間)
- 集合 $\{0\}$ は $K$ を問わず $K$上のベクトル空間となり、自明なベクトル空間(trivial vector space)と呼ばれる。
- $K$ 自身、 $K$上のベクトル空間とみなすことができる。
- 平面ベクトルの全体、空間ベクトルの全体は、実ベクトル空間の例である。
- $\mathbb{C}$ は、実ベクトル空間である。
- $K$ の元を係数とする一変数多項式の全体は、通常の和と定数倍に関して $K$上のベクトル空間である。
定理1.1.4(消去律・逆ベクトルの一意性)
- $V$ をベクトル空間とする。$\bm{x},\bm{y},\bm{y}'\in V$ が $\bm{x}+\bm{y}=\bm{x}+\bm{y}'$ を満たすならば、$\bm{y}=\bm{y}'.$
- $V$ をベクトル空間とする。任意の $\bm{x}\in V$ に対し、その逆ベクトルは一意に定まる。
証明
- $\bm{z}\in V$ を $\bm{x}$ の逆ベクトルとすると、
$$\begin{aligned} \bm{y} =& (\bm{z}+\bm{x})+\bm{y} \\ =& \bm{z}+(\bm{x}+\bm{y}) \\ =& \bm{z}+(\bm{x}+\bm{y}') \\ =& (\bm{z}+\bm{x})+\bm{y}' \\ =& \bm{y}'. \end{aligned}$$
- $\bm{x}+\bm{y}=\bm{x}+\bm{y}'=\bm{0}(\bm{y},\bm{y}'\in V)$ と置いて、1.を適用すればよい。