レトラクト
レトラクト
レトラクト (retract) とは、位相空間のホモトピー論的な情報をある程度保つ「骨組み」となるような部分空間である。 ここではレトラクト (retract)、変形レトラクト (deformation retract)、強変形レトラクト (strong deformation retract)、それらを特徴づける写像であるレトラクション (retraction)について定義する。 (強)変形レトラクトは(強)変位レトラクト、レトラクションは縮射と訳されることもある。(なお、この定義には本項の記述とは異なる流儀がある。強変形レトラクトの項を参照。)
定義
レトラクト
位相空間 $X$ とその部分空間 $A\subset X$ に対して$A$ が $X$ のレトラクトであるとは、ある連続写像 $r\colon X \to A$が存在して,任意の $a\in A$ に対して $r(a)=a$ となることをいう。このときの連続写像 $r$ をレトラクションと呼ぶ。または包含写像を合成して $r\colon X\to X$ としたものをレトラクションと呼ぶこともある。なお、このとき $A=\{x\in X\,|\,r(x)=x\}$ と表されることから、$X$ が ハウスドルフであるときにそのレトラクト $A$ は必ず $X$ の閉集合となる。
変形レトラクト
$A$ が $X$ の変形レトラクトであるとは、ある連続写像 $F\colon X\times [0,1]\to X$ が存在して $F$ は恒等写像からレトラクションへのホモトピーとなることを言う。これはつまり、任意の $x\in X$ に対して $F(x,0)=x$ であり $t=1$に対しては $F(x,1)\in A$ を満たし、さらに $a\in A$ に対しては $F(a,1)=a$を満たすことをいう。これは言い換えれば包含写像がホモトピー同値写像となるような部分空間と言い換えることもできる。このときの $F$ を変形レトラクションと呼ぶ。
強変形レトラクト
$A$ が $X$ の強変形レトラクトであるとは、ある変形レトラクション $F\colon X\times [0,1]\to X$が存在し、さらに任意の$(a,t)\in A\times [0,1]\subset X\times [0,1]$ に対して $F(a,t)=a$ を満たすことを言う。これは部分空間 $A$ を動かさずに恒等写像をレトラクションへとホモトピーで変形していることに注意されたい。このときの $F$ を同様に強変形レトラクションと呼ぶ。
なお、文献によっては強変形レトラクトを単に変形レトラクトと呼ぶことがある、例えば代数的トポロジーの代表的な教科書である Allen Hatcher の Algebraic Topology においてはこの項における強変形レトラクトの定義をもって deformation retract と呼んでいる。
各性質の間の関係
定義から明らかに、強変形レトラクト $\Longrightarrow$ 変形レトラクト $\Longrightarrow$ レトラクト であるがこれは実際に逆は成り立たず反例が存在する。
- $\{0\}\subset \{0,1\}$ はレトラクトであるが変形レトラクトでない。
- $C$ をくし空間とすると、$\{(0,1)\}\subset C$は変形レトラクトであるが強変形レトラクトではない。
なお、位相空間 $X$ とその部分集合 $A$ に対して、$A$ が $X$ の変形レトラクトであることと強変形レトラクトであることは、次のような場合には同値となる。
- $X$ がCW 複体で $A$ がその部分複体であるとき。より一般に、空間対 $(X, A)$ がホモトピー拡張性質をもつとき。
- $X$ が位相多様体で $A$ がその閉集合であるとき。より一般に、$X$ が絶対近傍レトラクトで $A$ がその閉集合であるとき。
重要な例
- 凸集合 $X$ の任意の一点 $\{y\}\subset X$ は強変形レトラクトである。強変形レトラクションは $F(x,t)\colon=$「 $x$ と $y$ を結んだ線分を$t\colon (1-t)$に内分した点」と定義することで得られる(連続性については吟味が必要)。
- 単位球面 $S^n\subset \mathbb{R}^{n+1}\setminus \{0\}$ は強変形レトラクトである。強変形レトラクションは $F(x,t)\colon=((1-t)+\frac{t}{\|x\|})\cdot x$ で与えられる。
- 単位閉球 $B^{n+1}$ の境界 $S^n\subset B^{n+1}$ はレトラクトでない。もしこのようなレトラクション $r\colon B^{n+1}\to S^n$ が存在すると 、$F(x,t)\colon =$「$x$ と $r(x)$ を結んだ線分を $t\colon(1-t)$ に内分した点」と定義することで変形レトラクションがえられる(連続性については同様に吟味が必要)。したがって変形レトラクションの存在から $B^{n+1}$ と $S^n$ はホモトピー同値となってしまう。ここでホモトピー不変量であるn次の整数係数特異ホモロジーを比べると $H_n(B^{n+1};\mathbb{Z})=\{0\}$ は自明な群であるのに対して、$H_n(S^n;\mathbb{Z})\cong \mathbb{Z}$ は非自明な群となり、ホモトピー不変性に矛盾する。以上より $S^n\subset B^{n+1}$ はレトラクトでないことがわかる。詳しくはBrouwerの不動点定理を参照されたい。