粗空間
粗空間
粗空間(そくうかん、coarse space)とは、距離空間などの空間を大きなスケールで見て研究する分野である粗幾何学(coarse geometry)で取り扱われる構造を抽象的に定式化したものである。
定義
$X$ を集合とする。直積集合 $X\times X$ に対して、$\Delta_X=\{(x,y)\in X\times X\,|\,x=y\}$ を対角線集合とする。$X\times X$ の部分集合からなる族 $\mathcal{E}$ が $X$ 上の粗構造(coarse structure)であるとは、次の条件を満たすことをいう。
- $\Delta_X$ は $\mathcal{E}$ に属する。
- $E$ が $\mathcal{E}$ に属し、$F$ が $E$ の部分集合であるならば、 $F$ も $\mathcal{E}$ に属する。
- $E$ が $\mathcal{E}$ に属するならば、$E^{-1}=\{(y,x)\in X\times X\,|\,(x,y)\in E\}$ も $\mathcal{E}$ に属する。
- $E, F$ が $\mathcal{E}$ に属するならば、$E\circ F=\{(x,z)\in X\times X\,|\,$ ある $y\in X$ に対して $(x,y)\in E,\, (y,z)\in F\}$ も $\mathcal{E}$ に属する。
- $E, F$ が $\mathcal{E}$ に属するならば、$E\cup F$ も $\mathcal{E}$ に属する。
このとき、組 $(X, \mathcal{E})$ を粗空間という。混乱のおそれのない場合、単に $X$ を粗空間という。集合族 $\mathcal{E}$ の要素を、粗空間 $X$ の制御集合(controlled set)という。
粗空間の定義は、大まかに言って、一様空間の定義で集合の包含関係だけを逆転させたものである。実際、粗空間も一様空間も、「一様な近さ」を扱うことでは共通している。一様空間が一様連続性などの小さいスケールの現象に着目した概念であるのに対し、粗空間は大きなスケールの現象に着目した概念であるということが、包含関係の逆転に現れている。
重要な例
$(X,d)$ を距離空間とする。$E\subset X\times X$ が制御集合であることを「ある $r>0$ が存在し、任意の $(x, y)\in E$ に対して $d(x, y)<r$ が成り立つ」ことと定義すると、$X$ 上の粗構造が定まる。この粗構造を、距離空間 $(X,d)$ の有界粗構造(bounded coarse structure)という。
有界粗構造は最も基本となる粗構造の例であって、一般の粗構造の幾何的意味を考える手がかりを与える。距離空間 $X$ の有界粗構造において、$E\subset X\times X$ が制御集合であるということは、「$(x, y)$ が $E$ を動くときに $x$ と $y$ が距離の意味で一様に近い」ということを意味している。一般の粗構造においては、逆に「一様な近さ」という概念が制御集合の族によって規定されていると考えればよい。
粗空間の間の写像
粗空間 $(X, \mathcal{E})$ に対して、$B\subset X$ が有界であることを、$B\times B$ が $\mathcal{E}$ に属することとして定義する。これは、距離空間の有界粗構造に関しては、距離空間の部分集合に関する普通の意味の有界性に一致する。
$(X, \mathcal{E})$, $(Y, \mathcal{F})$ を粗空間とする。写像 $f\colon X\to Y$ に対して、次のように定義する。
- $f$ が固有(proper)であるとは、任意の有界集合 $B\subset Y$ に対して $f^{-1}(B)\subset X$ が有界となることをいう。
- $f$ が粗一様(coarsely uniform, bornologous)であるとは、任意の $E\in\mathcal{E}$ に対して $(f\times f)(E)=\{(f(x), f(y))\,|\,(x,y)\in E\}$ が $\mathcal{F}$ に属することをいう。
- $f$ が粗写像(coarse map)であるとは、$f$ が固有かつ粗一様であることをいう。
粗空間 $X$ に対して、恒等写像 $\mathrm{id}_X\colon X\to X$ は常に粗写像である。また、二つの粗写像 $f\colon X\to Y$, $g\colon Y\to Z$ の合成 $g\circ f\colon X\to Z$ は粗写像となる。
整数全体 $\mathbb{Z}$ に通常の距離 $d(m, n)=|m-n|$ を入れ、これを有界粗構造について粗空間とみなす。$X=Y=\mathbb{Z}$ のとき、次が成り立つ。
- $f_1\colon X\to Y$ を $f_1(n)=n^2$ で定めると、$f_1$ は固有だが、粗一様でない。
- $f_2\colon X\to Y$ を $f_2(n)=0$ で定めると、$f_2$ は粗一様だが、固有でない。
- $f_3\colon X\to Y$ を $f_3(n)=3n+5$ で定めると、$f_3$ は粗写像である。
$S$ が集合で $X$ が粗空間のとき、二つの写像 $f, g\colon S\to X$ が近い(close)ことを、$\{(f(s),g(s))\,|\,s\in S\}$ が制御集合であることと定義し、このとき $f\sim g$ と書く 。近いという関係 $\sim$ は同値関係となる。このとき、粗空間を対象とし、その間の粗写像の $\sim$ による同値類を射とすることで一つの圏が得られる。この圏における同型射を粗同値という。すなわち、粗空間の間の写像 $f\colon X\to Y$ が粗同値(coarse equivalence)であるとは、粗写像 $g\colon Y\to X$ が存在して、$g\circ f\sim \mathrm{id}_X$, $f\circ g\sim\mathrm{id}_Y$ となることをいう。
粗幾何学の考え方として、粗同値な二つの粗空間は実質的に同じものとみなす。例えば、$\mathbb{R}$ と $\mathbb{Z}$ をそれぞれユークリッド距離とその制限について距離空間とみなし、有界粗構造について粗空間と考えよう。$f\colon\mathbb{Z}\to\mathbb{R}$ を包含写像 $f(n)=n$ とすれば $f$ は粗同値である。実際、上の定義での $g\colon\mathbb{R}\to\mathbb{Z}$ として $g(x)=[x]$ が取れる($[x]$ は $x$ 以下の最大の整数を表す)。このようにして、$\mathbb{Z}$ と $\mathbb{R}$ は有界粗構造について粗同値であると分かる。このことは、$\mathbb{Z}$ を「非常に遠くから見ると」点同士がつながって $\mathbb{R}$ と同じように見えるという直観的解釈をもつ。